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新島襄 |
- 新島襄、同志社英学校創設
新島襄は1874(明治7)年11月、 テニス部前史日本を1864年新島襄脱国の姿脱国してから10年におよぶ欧米の生活を終えて帰国した。新島はキリスト教主義の学校創設という高い志を持っての帰国だった。
翌年、京都府顧問山本覚馬の知遇を得て薩摩藩邸の跡地を譲り受け、11月29日に同志社英学校創設の運びとなった。それではどのような生徒が集まったのだろうか。実は新島が帰国する以前からアメリカン・ボードから派遣された宣教師で後に同志社の教師となるJ.D.デイヴィスやD.C.グリーンたちが神戸を拠点にして布教活動をしながら、宇治野菜諸学校を開校していた。そして新島帰国とともに、新島の志に共鳴したデイヴィスが新島の創設した同志社英学校へ宇治野英語学校の生徒数名を引き連れて参加した。けれども、創設当初の生徒は8名にすぎなかった。
しかし、翌年、熊本洋学校から30名に及ぶ生徒が転校してきた。いずれの生徒も同志社発展の礎となるような優秀な生徒たちで、いわゆる熊本バンドと呼ばれる連中である。熊本洋学校の校長L.L.ジェーンズからキリスト教を学んだ彼らは熱烈な信奉者になっていたため、熊本において厳しい迫害を受けていた。熊本洋学校の存続を危ぶんだジェーンズはデイヴィスに生徒たちを同志社に送り込む決意の手紙を書いた。1976年秋に30名に及ぶ学生たちが同志社にやってきて同志社はにわかに活気を帯、同志社発展の基礎となった。この30名の中に2代目総長小崎弘道、3代目総長横非時雄、7代目総長海老名弾正、ジャーナリスト徳富蘇峰など次代を担う人物が綺羅星(きらぼし)のごとく居た。
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J.D.デイヴィス |
- 体育を重視した新島襄
新島はアーモスト大学で学んだが、アーモスト大学は体育教育を重視していて既にカリキュラムに体育を組み入れていた。アーモスト大学における当時の体育の取り組みについ帰国直前の新島襄て同志社大学商学部搬口彰名誉敦授は次のように活写している。
「1860年ごろ、アーモスト大学にはアメリカにおける体育とスポーツの先覚者であるエドワード・ヒッチコック博士を中心に優れた研究スタッフがいて、当時としては世界で最も進んだ設備を備えたバーレット体育館を持ち、保健体育を教科に取り入れ、立派な施設を十分に使って身体の教育を行うと共に、行き届いた健康管理をしていた。
新島は父民治への書簡でこの体育館について『珍奇をあつめ置所(ジュムネージャム)等有之』、『只々学問を出精いたし、口に一度ツ々彼ジュムネージャムに参り球をころがし色々の遊びを致し候』と言っている。珍奇とは体操用具の本アレーで、球ころがしはボウリング、クロッケーのような球技であったと思われる。また、アーモスト・プリンシプルとして決められていた方針に従ってクラブ活動も経験したと思える。それは学生のリーダーを中心とするクラス単位のスポーツ活動であり、クラス対抗の競技も盛んに行われていたっこのようなスポーツの自治組織と、それらの活動を通じて結ばれる深い人間のつながりは、新島の教育理念に大きな影響を与えたに違いない
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アーモスト大学シーリー学長 |
- 新島襄は明治政府の体育教育相談役明治政府は日本の教育制度を整備するために欧米の教育制度を導入しようとしていたがその相談に新局長は何度も応じてきた。体育教育を日本に導入する時も新高庇に相談しているが、その問の事情について同志社女子大学秦芳江名誉教授が「同志社時報」に詳しく掲載されているので紹介する。「明治政府が学制を制定したとき、困った問題は体育と音楽をいかに教えるかにあったという。体育に関して言えば、文部理事官大輔、田中不二麿は体育の指導者を物色するために渡米し新島の紹介でアーモスト大学シーリー学長にその選考を依頼している。田中と新島とは岩倉兵役使節団の一員として欧米視察のとき、苦楽をともにした仲である。シーリー学長は『新島のような立派な学生をよこす日本には最上の卒業生を送る必要がある』と考え、アーモスト大学時代、
新島の『体育』の教師で後に全米体育協会の初代会長となったヒッチコックに斡旋を頼んだのである。彼は『近代体育の父』とも言うべき人で、身長、体重、胸囲、脈拍、懸垂などの測定を体育に取り入れた最初の人である。
ヒッチコックはジョージ・アダムス・リーランドを推薦し、新島と相談の結果、リーランドは高等師範学校の前身である『体操伝習所』の主任教授として招聘されるにいたった。日本における体育の方向を決定した「お雇い外国人』の人選に新島が関与したことはまことに興味深い」
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アーモスト大学バーレット体育館 |
- お雇い外国人リーランドがテニス伝授ではリーランドは「体操伝習所」に赴任してどういう体育教育をしたか。「日本文化交渉史4-学芸風俗箱-」(開国百年記念文化事業会編 洋々社 昭和30年刊)には次のように記載されている。「1878(明治11)年、日本に赴任してきたリーランドは日本人の体格・体重り平版・握力・跳躍など仔細に調査し、できるだけ日本人に適する体操を授けるように心がけて、選んだスポーツがテニスである。政府公立の体操学校のため、わざわざテニスの道具をアメリカから取り寄せたのである。この体操訓練所は、1884(明治17)年高等師範学校に併合されたので、ここがテニスのメッカとなって、その卒業生が全国の中学校の教員となって赴任し、そのスポーツを伝えたので、3府42県に広がった」
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新島八重 |
- 草創期同志社の体育授業
一方、同志社での体育教育はどうだったのか。当時回志社は校内では聖書を教えないことを条件に学校設立を認められていたが、耶蘇の学校だということで京都府から監視されていた。 1879 (明治12)年9月の京都府庁による「同志社視察之記」には「体操ハ放課後二王ヲハナチテ雌雄ヲ決スルコトヲ除クノ外苔生ノ任意二任スト云々」と記されているが、当時の記録をもとに末光力作工学部教授は「新島襄と近代スポーツ」(新島襄生誕150年記念論文集、晃洋書房1993年刊)で次のように紹介している。「草刑期の同志社美学校では平日は勉学の日(Academic Day)、土曜日は体育の日(Physica1 Day)、日曜日は修養の日(Spiri-tua1 Day)として教会の礼拝に出席した厄聖書に親しむ日に当てたのである。体育の日である土曜日は、主に学生の山野試歩に用いられ、新島も奨励した。
平日の放課後午後4時から5時まで学生全体が源平に分かれ、双方が大将を選んで、その指揮の下に『球技合戦』をおこなった。球は新島ハ重夫人の考案で古切れにふとん綿を固く詰めたもので、球の製造は女学校の生徒が引き受けたという。
新島夫人は会津戦争に従軍、鶴ケ城に龍城し自らも銃を操作して戦った女傑であった。『玉投げ』はいつも壮絶を極め、後に同志社総長になった海老名弾正は王を顔に受け、前歯を祈ったと伝えられている。当時は、1877(明治10)年の西南戦争の血脈い余韻が漂っており、口さがない京童は「同志社のキリスト教徒が戦の稽古をしている。いまにキリシタンが蜂起した天草の乱の二の舞でもやらかすのではないか」と言いふらし、話は尾に鰭をつけて広がる始末。ついに京都府庁も調査のためスパイを潜入させたほどであった」
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D.W.ラーネッド博士 |
- 体育教育の仕掛け人ラーネッド博士では誰が体育教育の具体的仕掛け人であったのだろうか。同志社創設当時からアメリカン・ボードから派遣されてきたD.Wラーネッド博士が重要な役割を果たしている。
ラーネッドはイエール大学で学んだ後、セイヤー大学の教授として勤務し、1975年27歳で同志社開校に併せ来日した。彼が担当した科目は専門のギリシャ語はいうに及ばず、語学、人文科学、社会科学、自然科学、体育と広範囲にわたり何でも屋であった。
本井康博同志社講師の1995年の公開講演会記録「アメリカン・ボード宣教師、ラーネッドの場合」にラーネッドの体育教育への貢献内容が様々紹介されているので、その一端を紹介する。
同志社開校翌年からラーネッドは亜鈴や梶棒、球竿など簡単な用具を使った「簡単な体操」を校庭で教え始めた。 また、身体を動かすゲームも同時に教えたようで「フットボール」を紹介したのは自分だと『回想録』で打ち明けている。上述した「球技合戦」もラーネッドが導入した遊戯のひとつであると卒業生が紹介している。後年取り入れられる「具式体操」も彼が導入した。体操は正課でなく、放課後の選科(しかし全校参加)として4時から5時まで行った。
さらに重要なことは、彰栄館が建った1884(明治17)年当時のキャンパス地図が残っているが、それには現在のアーモスト館あたりに"Gymnasiumbuilding"いわゆる体育館が描かれている。ラーネッドのミッション宛手紙から推定して体育館建設が検討され決まったのは1879(明治12)年で、同年の12月には完成していたようだ。ラーネッドの指導であろう。
それ以降体育館で週4回、軽体操が指導され、随意科目にもかかわらず多くの学生が参加し楽しんでいるとミッション発行の「京都ステーション年報」(1880年)に書かれている。同志社開校から4年後に雨天用体育授業のために、体育館が用意されたのだ。同志社草創期から知育、徳育と同様に体育を重視していたことがよく判る。
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人力車に乗っている左側の女性 |
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明治10年代同志社女学校体育授業
後方にラケットを持った学生 |
- テニス導入の先進校同志社
このように当時から同志社では体育活動は積極的に奨励されてたが、テニスは行われていたのだろうか。
先に紹介した1879(明治12)年9月の「同志社視察之記」に女学校の煩があり、「スタークウエゾル又体操二用イル具ヲ示すス是ローンテニスト称スルモノニテ網ヲ張リテ護謨球ヲ投スルコトナク問フ女生徒ノ体操二羽子板ヲ用ル何故日天タ善シ吾国ニモ皮ヲ以テ張リタル物ニテ投球ヲ受ル具アリ其方椎等羽了・板ト同シ其鼓シテ音アル最モ楽ムヘシト」と記されている。
1876 (明治9)年10月に京都御苑内旧柳原邸に女子塾を開設し、翌年8月に同志社女学校と改称したが、当時の初代校長A.J.スタークウエザー(上記ではスタークウエゾル)はこの記述からして、すでにテニスを女生徒に紹介し教授していたものと思われる。この記事を証明するものとして、おそらく明治12年当時に撮影したものと思われる写真が今に残っていて、さまざまなスポーツ用具を待っている女生徒の中の2人がテニスラケットを持っている。 同志社草創期、リーランドが明治政府の体操伝習所で初めてテニスを指導し、また横浜の山手公園に外人女性専用のテニスコートが造られた1878(明治11年)直後に、既に同志社にテニスが紹介されていたことになり、おそらく日本の学校でテニスが体育として取り上げられた最初と思われる。 女学校は1878(明治11)年秋に御苑内柳原邸から現在地(常盤昇殿町二条邸跡地)に移転したが、この写真は移転以降のもののようである。二条邸跡地にテニスコートがあったかどうか分からないが、文面からして袴姿の女生徒による優雅なテニスプレイが想像できる。
ここでテニスの歴史に若干触れてみたい。フランスで発祥し、特権階級の回で親しまれていた球技ジュ・ド・ホームがフランス革命以降フランスでは衰退しイギリスに渡った。1874年にイギリスのフィールド少佐がローンテニスという新しいスポーツとして統一ルールを定め特許申請した結果イギリスで普及し始め、さらにルールやコートの広さなども改正され、1877年には第1回ウインブルドン大会が開催された。
同志社へ派遣されてきた宣教師はアメリカのニューイングランドを本換地とするアメリカン・ボードに所属していたから、イギリスで普及したテニスはすぐにアメリカに伝わり、それを学んだ宣教師遣が日本に持ち込んだことになる。同志社にテニスが紹介されたのは、イギリスで普及し始めてから4、5年後ということになり、この普及スピードは驚異的といわねばならない。
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創設時の第一寮、第二寮 |
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明治2年頃の彰栄館チャペル、ハリス理化学館 |
- 同志社草創期の校舎と運動施設
1875(明治8)年6月に薩摩藩邸跡約5700坪を山本覚馬から 譲り受け同志社英学校の校地とした。 また、1877(明治10)年に二条家から旧邸跡地約6000坪を買収して同志社女学校の敷地とした。 新島が存命中に徐々に周辺の土地を買い求め、1890(明治23)年に亡くなったときには同志社の所有地所は3万坪を超えていた。1894(明治27)年ごろの校地図を見れば、校地面積では現在の今出川校地の面積にほぼ匹敵しており、当時の学生数からすれば十分の広さであった。一方、草創期のころの校舎は寄宿舎を兼ねたものであった。 1878 (明治9)年に相国寺畔の薩摩藩邸跡地 (鳥丸通、今の今出川校地中央通である石橋通、相国寺参道、中学校校庭で囲まれた部分)の現在のクラーク館付近に上限が寄宿舎の2校舎、第一、第二寮が建てられた。その後、1886(明治19)年までに同敷地に第三寮から第入寮まで建った。しかし、その後新たに土地を取得し拡充するとともに、新礼拝堂(それまで木造チャペルが建っていた)や ハリス理化学館の建築計画などが浮上し、第三、第四、第五、第六の四寮は東寮地域(現在のアーモスト館付近)に、 第七、第八の二寮は北寮地域(現在の中学テニスコート付近)に移築され、新築寮として第九、第十は北寮地域、第十、第十一、第十二の三寮は百官地域 (鳥丸今出川上ル西側付近)、それ以外は今の独立大学院校付近(西側北寮)に建てられ、1890(明治23)年までに寮が再整備された。
一方、本格的な最初の煉瓦建て校舎は彰栄館であるが、竣工したのは1884(明治17)年であった。その後、1886(明治19)年に礼拝堂、1887(明治20)年に有終館、1890(明治23)年にハリス理化学館がそれぞれ完成した。このように煉瓦建ての近代的な建物が次々と建ったが、形栄館、礼拝堂、有終館は宣教師であり同志社の教授であったD.C.グリーンやD.Wラーネッド博士がかかわり、設計、監督はグリーンが行い、ハリス理化学館も含めて建築資金所得のためのアメリカン・ボードとの交渉はラーネッド博士が行った。これら3棟とも現在重要文化財に指定されている。おそらく、彼らは同志社初期のキャンパス計画に大きくかかわっていたのであろう。グリーンは1809(明治2)年にアメリカン・ボードの最初の宣教師として来日し、アメリカから帰国した新島を横浜で出迎えた人物で、1882(明治15)年から同志社の教師として赴任した。 このように徐々に校舎は整備されていったがハリス理化学館北側はまだ相国寺境内の竹やぶでグラウンドとして整備さ牡た地域はほとんどくな彰栄館と北寮の開の空地は狭くスポ-ツには使えなかった。
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松村松年 (北大HPより) |
- 明治20年以前にテニスをした同志社学生
このように同志社のグラウンドが未整備の状況の中でテニスを試みたと記録を残している学生がいた。松村松年の著書「松村松年自伝」(社団法人造形美術協会出版局 1960年刊)で「その翌年(明治18年)の9月に再び兄の命令で、今度は京都の同志社英学校を受験した。 しかしこれはみごとに失敗したので、同役の予備校に人り上級生の川本音次郎、松波仁一郎、中川徳行などの語先輩に教えを受けた。ここでも英語、数学、漢文の三つを修めたが、テニスというものをわたくしが初めて試みたのも、この学校であった」とある。
また、同じく松村の「人間学としての体育」(警醒社書店 大正12年刊)にも「彼の庭球の如き著者は明治17年初めて京都同志社教授グリン氏のコートで行った事がある。恐らくは死時が日本での初めての試であったのであろう。フットボールも同時に行った。何れもが其当時日本人間には見られなかった這般であった]と記している。松村松年はその後、札幌農学校に入学し北海道大学教授として昆虫学者として大成し、学士院会員にもなり勲一等瑞宝章も授与された人物である。彼が2冊の著作にテニスをしたことを記述したということは、よほどテニスが気に入ったのであろう。このように、明治17、18年ごろに15、16歳の予備校生松村がグリーンのコートでテニスをしたとすれば恐らく学内の一角にコートがあり学生も利用できたのだろう。西寮付近に教師館(アメリカン・ボード宣教師宿舎)が建っていたが、そこにテニスコートがあったのかもしれない。テニス用具は高価なものだったので学校から借用していたに違いない。また、後ほど述べるが、このころはまだ軟球が開発されていなかったので、硬球を利用した文字通りローンテニスだったと思われる。予備校生であった松村でさえテニスができたのだから本科生はこの当時結構テニスをしていたのではないかと推測できる。キャンパス計画をグリーンが握っていたからテニスコートの整備も彼が行ったのだろう。
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