1912年(明治45、大正1)年 この年 明治天皇崩御。 南京臨時政府(中華民国)成立、清朝滅亡。
本学は専門学校令により同志社大学予科、本科(神学部、英文科、政治経済学部)、同志社女学校専門学部開設。
- (7月)回復の兆しある庭球部近況報告
「我庭球部は先学期殆ど休眠状態にありしも此処一大リバイバルを起こし夏期休暇には明石辺にて練習をなすとよしと漏れ聞きたり又来る30日には明治大学遠征群と試合をなす筈なりと」(同志社時報)
- (10月)対花園楽員復讐戦大勝
記者氏は久々の対外試合だったのか「吾人野球戦に渇せると同時又庭球戦にも飢えたり、(略)我軍最初より景気よく又応援猛烈を極む」(同志社時報89号)と観戦記に載せている。応援の効果もあったのか優退組と不戦1組を残し、連敗の花園に勝った。
○同志社 6-2 花園学院 ×
同志社ペア:白河・山下(2勝)、古谷・谷本、松村・福本(2勝)、露無・久我、岩室・安川(2勝)、石原・笠原
1913(大正2)年 この年 米国が中華民国を承認。
慶応大学庭球部が硬式採用を決定、熊谷一弥マニラでの東洋選手権に出場。
- (5月)同志社大学開校と庭球部の近況
神学校と専門学校ががっさペイし1912(明治45)年4月から専門学校令による大学として新体制となったこともあり、庭球部もこの機運に乗り意気上がれっていた。その様子を「一葉の扁舟萬里漂泊の愁いに似て、久しく沈滞せしわが同志社庭球部は、われ等が鉄石の心腹と、かっては強敵早稲田遠征軍に肉迫して斯界に同志社ありと知られたる光輝あるわが部の歴史とによりて、今やわれ等は大活動の初頭に立つに至れり。新しき大正の御代に常り、恰も同志社大学開校と相待ちて、此の機運に際会したるわれ等は愈々益々行きあがるの喜び禁ぜんと浴するも得ざるなり。則ち茲に本学期となりてより、三個のテニスコートは新設せられて日々熱球飛び孫呉欺く妙陣を戦はす事とはなりぬ。(賂)希望に満ちてるわれ等の近況を誰と共に語らんか、悠々たるわが部の前途を誰と共に計らんか、唯唯誓てわれ等は自らの努力と校友の声援に信頼して、斯くして天下の覇権を期せんのみ、かくて授戒を四海に示さんのみ」(同志社時報第99号)と少し誇張はしているが、新生大学の気運をよく表している。ここで早稲田にかつては肉迫していたと言っているが、早稲田の選手を関西遠征のとき歓迎したことはあるものの対戦したことが無かったから誤って伝わったものだろう。
大学が開校し新に3つもテニスコートが新設されたということだが、このコートは第三次運動場拡張によってハリス理化学館北側に設けられたものと思われる。ところで明治40年の記事にテニスコートは学内に5ヵ所あったと記している。明治42年の記事ではチャベル北側の新コート(2面)の紹介をしている。さらに3コート増設となると学内に10コートもあることになり考えられないことである。おそらく各寮に点在していたコートを廃止し、グラウンドなどに集中させたのではないだろうか。
- 対京都師範戦圧勝
「島崎組、岩室組の活動は向う所敵なき勢力あり、その剛健なる島崎の後衛と巧妙なる西田の前衛と相待ち岩室の確実と安川の熱烈とまた相待ちて両両共に当日の花形なり、且つはわが部の柱石たるなり」(同志社時報第99号)
○同志社 6-4 京都師範 ×
同志社ペア:大江・小島、山上、福本(1勝)、池田・東、島崎・西田(3勝)、岩室・安川(2勝)、真野・進藤
- 対膳所中学戦大勝
「転機晴朗にして身は軽く、われ等滋賀遠征軍の意気おおいに上がり強敵膳所中学を突破したり」(同志社時報第99号)
○同志社 6-2 膳所中学 ×
同志社ペア:大江・小島、池田・東(2勝)、山上・福本、岩屋・安川(1勝)、真野・進藤(不戦)
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理科学館北運動場テニスコート
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- 対滋賀師範戦大勝
○同志社 5-1 滋賀師範×
同志社ペア:池田・東(2勝)、大江・小島(2勝)、山上・福本、岩屋・安川(1勝)、島崎・西田(不戦)
- 第12回校内庭球大会にスポンサー付く
「校内学生の出演者数十名を算し、京阪の各学校より選手の出場し来りしもの二十有五にして未曾有の盛会を催すことを得たり」(同志社時報99号)との状態で2日にわたり開催され盛況だった。招待校は次のとおりであった。招待校との対抗戦には大阪毎日新聞社が後援を引き受けメダルを出している。この大会にスポンサ付いたのである。
五中、東山、花園、農林、美術、東寺、染織、真宗、滋賀師範、平安、二中、八幡、一中、膳所中、桃中、京都師範、東大、医学、佛大、神高商業、三高、大高工業、帝大
招待校を見ればわかるように中学から大学まで渾然一体となった大会であった。なかでも神高商業、三高、大高工業、三高が強かったようだが、大毎メダルは対大高工業勝負に付せられ同志社の岩室・島崎組が獲得した。当時はまだ、大学、高校、中学とわかれずに合同で対抗戦などもしていた。
- 対花園大学戦大勝(同志社時報第100号)
○同志社 6-2 花園大学×
同志社ペア:池田・山上(2勝)、大江・小島、露無・福本、島崎・西田(2勝)、岩室・安川(2勝)
- 阪神遠征
明星商業、御影中学、桃山中学へ遠征し連勝。「嗚呼、仰げば天気晴朗満天拭くが如く六甲の連峰毅然として天空に聳え、伏しては洋々たる神戸湾鏡の如く澄み渡り、そよ吹く風のわれ等に昔日の栄光を再び輝かす時の来たりしと伝ふるを感じつつ、意気揚々として帰途二尽きぬ」
(同志社時報第100号)
- 対明星商業戦勝利
○同志社 5-3 明星商業×
同志社ペア:池田・山上.(2勝)、大江・ 進藤、真野・福本(1勝)、岩室・安川(2勝)、島崎・西田
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1914年同志社大学アルバム
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- 対御影師範戦大勝
○同志社 5-2 御影師範×
同志社ペア:池田・山上、真野・進藤、大江・福本(2勝)、島崎・西田(2勝)、岩室・安川(1勝)
- 対桃山中学戦大勝
○同志社 4-O 桃山中学×
同志社ペア:池田・山上(2勝)、大江・福本(2勝)、島崎・西田(不戦)、岩室・安川(不戦)
1914(大正3)年 この年第1次世界大戦勃発。
- 〈10月〉のどかな大学庭球部大会
新聞記事には標記タイトルで表示されているが大学生だけの大会なのか、中学生も参加できたのかわからない。しかし観戦記ではなくのどかな秋の風景の一こまとしてスケッチされているのが面白い。「図書館の裏のコートで開かれる事になった。自分は5、6の友人と共に図書館の読書室の窓に寄りかかっていた。館内はしんとしている。(略)懐かしい木蓮の香りがいづこからか、窓の方へと漂うて来る。鶏頭の花が強烈な色彩を放っている。読みかけた本をおいて窓から空を仰ぐと白い雲が緩く流れて居る。いかにものんびりとした小春日和である。庭球部の古川君や真野君がせっせと番 組や準備に取りかかって如何にも忙しそうに見えた。(略)秋の目は暮れやすくまだ四時半であるのに、もう夕日の光は次第に弱って来る。遠い所と近い所の区別が次第に漠然としてきた。面白かった今日の大会が終わったのは5時頃だった」(同志社時報)
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梅花女学校と神戸女学院の対抗戦
1900年代初頭
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- 〈11月〉第13回秋季庭球大会
「新宮祭日を下し我庭球部は関西の各学校を招待して、秋季庭球大会を催した。(賂)帝人を筆頭として二十にあまる学校から選手の晴れの舞台の戦闘振り定めて見事ならん。(略)今日は菊や紅葉に行く人計りかと思いの外コートは五重六重にかこまれて来り観し老後百か」(同志社時報)招待校は次の通り。
花園、二高、東山、五中、京中、平安、真宗、東寺、農林、膳所中、京都師範、一商、滋賀師範、美術、京二中、蚕業、佛大、大谷大、高工、帝人
同志社女学校が第一回三女学校連合庭球会に参加。 三女学校とは同志社女学校、神戸女学院、梅花女学校(大阪)を指す。
なぜこの3校で連合庭球会を開いたのか。 それはアメリカン・ボードから派遣された宣教師がいずれの学校にも関係しており姉妹校だからである。
その点を簡単にふれてみたい。
明治2年アメリカン・ボードから宣教師D.C.グリーン(後の同志社教師)が神戸に派遣されてきた。
続いて明治4年に0.H.ギューリック、J.D.デイヴィス(後の同志社教師)、J.C.ペリー(後に同志社病院長)が派遣されてきた。 彼らはキリスタン禁制(解禁は明治6年)の中、明治5年神戸宇治野で宇池野英語学校を開設する。 そこヘタルカットとダッドレーという女性の宣教師が派遣されてきてこの英語学校で教えるが、彼女らは明治6年独立し私塾「女学校」を開設する。 これが神戸女学院の前身である。
一方、宇浜野英語学校でD.C.グリーンに学んだ澤山保羅は渡米し、その後伝道者として帰国し明治9年に浪花教会設立、明治11年梅花女学校を設立した。
さらに明治8年、新島襄に誘われてJ.D.デイヴィスが同志社英学校の設立に宇治野英語学校の生徒を引き連れて参画した。 このように女学校3校のルーツは宇治野英諸学校にある。
ではその記事を紹介しよう。「庭球部神戸行、予てより神戸女学院、大阪梅花女学校及び本校との問に生徒の親睦を図らんとの議あり。 今回其手はじめとして三校連合庭球大会を神戸女学院に行う事となり、本校より選手十名及び陪観者二名、田中、天野、野村の三教員に引率せられ、 (略)11時庭球試合紅白勝負を始む。
3組試合ありて後同校家政館食堂に於いて一同昼食の饗応を受け、和気蕩々として楽しく食事を済まし、午後1時より再び試合にかかる。 (略)神戸を出発するに臨み、同窓会神戸支部より我等一同へ茶菓及び菓物等を贈られたり。女学院の歓待と同窓会支部の厚意を厚く感謝す」
(同志社時報第116号)と楽しい雰囲気にあふれた交換会であった。