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庭球部発足以降 ~ 明治時代3

  1. 学内新聞発刊の状況
    この運動部規則が制定されてから毎年各運動部は積極的に学内競技大会を開催することになった。また、他学校との対校試合も積極的に行った。これ以降、当時発刊されていた学内定期刊行物から庭球部の活躍がどんなものであったのか検証していきたい。まず、当時の学内刊行物を一覧する。 

    1894(明治27)年に刊行された「同志社女学校期報」が学内定期刊行物としてはじめてのもので、これ以前には何も刊行されていない。では、運動部の記録が出てくるのはいつからかといえば、1905(明治38)年1月刊行の「同志社新聞」第3号に掲載された同志社運動部規則が最初である。これ以降の学校法人として刊行した「同志社新聞」(16号から同志社時報」)には運動部の動向かかなり詳しく取材され記事として掲載されている。時期にすれば大正末までである。しかしなぜか、1927(昭和2)年で終刊となっている。これを引き継ぐように学外団体の校友同窓会が「同志社校友同窓会報」(105号から「同志社新報」)を刊行するが、取打陣不足が影響しているのだろうか、運動部の記録はほとんど出てこなくなった。つまり昭和に入ってからの運動部記録はあまり残っていないのだ。
    それでは『同志社新聞』(16号から『同志社時報』)の記事を中心に庭球部の記録を年次を追ってたどってみることにしよう。まず、各年次ごとに時代背景と学内の動き、そして学内外のテニス事情などをヘッドライン的に触れたのち、同志社庭球部の動きを学内新聞から袷い上げる。


     
  2. 本学庭球部発足当時の時代背景
    1905(明治38)年に日露戦争が終わり、ポーツマス講和条約が調印されたが講和条約に対する反発が強く、国威が異常に盛り上がってきた時期であった。
    同志社では1897(明治30)年横井時維が 第三代社長に就任したが、それ以降、西原詩東、片岡健吉、下村孝太郎と社長はめまぐるしく代わった。1907(明治40)年、原田助が社長になって以降長期安定し、学生も増え拡大していった。
    テニスの普及では、慶感義塾では本学に先立つこと4年早く、1901(明治34)年に体育会庭球部が発足していた。また、早稲田大学に庭球部が誕生したのは、1903年(明治36)年で、庭球部の部長は安部繊維であった。また、関学は1912(明治45)年に庭球部が創部された。しかし、いずれの大学も軟式庭球であった。
    なお、当時の同志社の庭球部事情について加藤延維の自伝、「わかしと同志社」には、明治40年ごろは「軟式を使ったテニスが流行るのであり、硬球についてはその存在を知るものさえほとんどいなかった」と書かれている。また明治43年卒の卒業生が「同志社スポーツの歩み」(1960年刊)に「ゴム球を使用した軟式庭球であった。神学館の東側に選手用のコートが1面あり、ユニホームにDOSHISHAのマークがあるスマートな振りであった。早稲田大学の選手と試合した程だから相当強かったと思う。上級の明田君、同級の堀内、轟君、下級の安川君の試合振りはたいしたものであった]と紹介している。
    したがって、欧米帰りの安部繊維が硬球を使用したり軟球を使用したりしながら硬式テニスをしていた明治30年代初期から、明治40年前後には完全に軟球を使用したテニスに替わってしまったと思われる。しかし、明治42年ごろの写真を見るとテニスのラケットは硬式のラケットのように見えるので、ボールだけが軟球だったかもしれない。また、大正初期の庭球部の写真を見ればローンテニスと表記されているので軟球を使用していても和製テニスという認識がなかったように思う。硬球ボールを使ったテニスが本学で再び現れるのは大正9年前後まで待たねばならない。
    世界のテニス事情をみてみると、1877年ウインブルドン大会が始まってから、1881年全米テニス選手権大会、1891年令仏テニス選手権、1900年デビスカップ大会が順次開催されることになったが日本はまだ蚊帳の外たった。一方、日本では1900(明治33)年に東京ローンテニス倶楽部が設立されたが、ごく一部のものが硬式テニスを楽しんでいたに過ぎない。依然として軟式庭球が主流であった。


     
  3. 同志社運動界近況 開口一番、同志社運動界近況を伝える名文記事の紹介から始める。

    「晩春の京は今生命」の色なる緑に埋もれてあり、京は活動の初夏に入りぬ。しかもこの五月は我運動部活動の最高潮時にてありき。八蒲の月はこれ男児の祝い月。続編 の鎧は着ざれ、ひる巻の剣こそ佩かざれ、われには貫余のバットあり、一丈二尺のオールはあり。野球大会、庭球大会、次ぎてフットボール大会、ボート大会、健児が面目は残りなく発揮されてここにあり。清朝たる精神は間一髪の緩みも許さず。(略)いま吾人は萬斛の同情を諸君に訴ふ。希くばわが運動部の前途をして男子らしき体格と精魂とを養うに於いて遺憾なくその職めを全うするものたらしめよ」(同志社時報第20号)

     
  • (4月)庭球部春季大会
    学内新聞に初めて出るテニス部の記事は学内庭球部春季犬合の様子を伝えるもので「わが庭球部は神学館横手運動場において同部春季大会を催す。 (略)
    副会長宇野中佐、同幹事後藤昇造、監督飯塚教師は早朝より会場にこられて種々指図せられし。(略)何分にも本部は今春以来日進の勢いにて盛大となりこれる事なれば、出演者のみにても80名を越す程なりきたれば幼年組青年組の二部に分かちて紅白の勝負を決する事とせり。彰栄館の鐘8時を告ぐる。
    まづ幼年組勇ましく陣を構えて雄姿を決し始めぬ。(略)拍手喝さい会場ために振動せんばかりなりき。特に戦い矯なるころ数十名の女学校諸姉妹は列をなして観戦にこられき」(同志社時報第20号)と80名を超す参加を得て盛大に開催された模様がよくわかる。幼年組は同志社中学校の生徒、成年組は専門学校と神学校の学生であろう。同志社女学校の生徒も応援に駆け付けていて華やいだ状況が目に浮かぶようだ。

     
  • (6月)庭球部近況
    京都商業学校、染織学校と対抗試合をし、2校ともに勝利する。対外試合を初めて報じているが、クラブとしての体裁も整ったのであろう。このころの庭球部を「先学期は破竹の勢いを以って挑戦し、向う処勝たざるなく其の発展は実に驚くべきなり。 殊に夏期休暇中は各々国に帰りても練習を続行し居りしこととて、其の技量の発達は更に注目すべく前途愈々有望なり](同志社時報第24号)と学内新聞は評価している。

    明治40年頃の運動会風景
    明治40年頃の運動会風景
  • (9月)運動場拡張記念 秋季大運動会
    今まで運動場がなく上加茂神社の境内や御苑を借りていたが「運動場拡張は、実に年来の宿志にして、容易に其の緒に就く能はざりしが、今や彰栄館北運動場は四百敷十坪の新開拓地を得て、(略)当局者は来る天長の佳節をトし、特に拡張記念として秋季大運動会をこの原頭に於て催さんとす。(略)我運動会歴史は、茲に新たなる世紀を迎えたる也」(同志社時報第25号)。このように積年の運動場の拡張が実現し体育教育は学内でできるようになったが その後、第二次拡張として1910(明治43年)に公会堂(チャペル)北側が相国寺の土地を得て竹薮を切り開かれ、さらに第三次拡張として1913(大正2年)にハリス理化学館の北側が整地され学内グラウンドは充実していく。

     
  • 庭球部秋季大会大盛況
    神学校(クラーク記念館)脇のコートで回催し100何名の多数の参加があり、対寮マッチ、対級マッチ、紅白マッチなど次から次へと企画し庭球部は活況を呈した。その活況ぶりは「常には机の虫とまで人に呼ばれて居る人でも、ラケットを振り回してコートに行って来ると云う風だから、本部の部員も大変増して来た。(略)(ま大会には)女学校の諸教師、諸姉等もひじょうに興味を以って観に来られた」(同志社時報第25号)のである。

     
  • 早稲田大学選手来校歓迎
    早稲田大学庭球部選手14名が「本年、東京に於ける諸学校を悉く攻め亡ぼして関東の覇を握り、当冬休暇を利用して関西の大遠征を試みて、天下の覇たらんとの野望を抱き西下し、(略)(同志社を訪れ)本校ではこの一行を大いに歓迎せん筈であったが、試験であったから十分の設備も出来なかったっ18日午後6時から一行を慰労せんため、校長はじめ2、3の教員と本部選手の主たるものとの催しで会食があったっ其の席上で彼等の抱負や運動の主意方法等を拝聴して実に益する所が多かった](同志社時報第27号)。その後、1月に入り早稲 田の選手は大阪中之島公園において大阪連合軍と試合をし、本学選手も観戦に多数駆け付けたと載っている(同志社時報第28号)

     
    1908(明治41)年
  • (4月)庭球部春季大会
    対京都商業学校戦辛勝「商業一度吾れと戦ふて敗を取りて、臥薪嘗胆以ってこの度の復仇戦を挑む。(略)彼等大いに奮戦したれども、遂に返り討ちとなれり」(同志社時報第45号)と、京商から再挑戦に応じた本学は玉井・明田組の大活躍で挑戦を退けている。

    0同志社 6-5 京都商業学校×
    同志社ペア:安井・和田、森口・廣部、河内・片桐(2勝)
    卜部・宮本、玉井・明田 (4勝)、黒川・西村

    明治42年頃の庭球部員
     
    明治42年頃の庭球部員
    明治42,3年頃の庭球部員
  • (10月)対岐阜中学校戦大勝
    「京都二中及び大阪商業は吾が鋭鋒に敵しがたくと思いしか、試合の前日に至りて中止を申し込んできた。来る者は拒まず、去る者は追わず、早速岐阜中学と会戦す。敵軍如何に強くとも、吾に玉井組をはじめ、勇将のしたに弱卒なしだ。(略) (との自信を下に戦い)此くのごとくにして、わが群は本日勇退三組、不戦組二組を残して大勝す」(同志社時報第50号)。玉だ、明田組を出すまでもなく勝利している。

    ○同志社 3-O 岐阜中学×

    同志社ペア:安井・和田、森口・廣部、河内・片桐

     
  • 対東寺中学校戦大勝
    個別試合の観戦評を載せた後、締めくくりに「玉井・明田組は本校の元老で御大将だ、意気軒昂コートに現れた。敵将箸○ロビングを以って玉井のバックを攻めたが、到底玉井の敵でない、彼はついに吾が軍門に降参した」(同志社時報第50号)と大勝利宣言をしている。

    ○同志社 6-2 東寺中学×
    同志社ペア:安井・和田(2勝)、森口・広部、河内・片桐(2勝)
    西村・和田(1勝1敗)、玉井・明田(1勝)、卜部・堀内(不戦)

     
  • 対真宗中学校戦圧勝
    「復讐戦を申込み、(略)本校にて開戦す。(略)(その結果)激戦に次ぐに激戦を以ってし、(略)目出度昔日の恨みを晴らし、以って本期の千秋楽となたり」(同志社時報第50号)。明治41年は好成績であったが、テニスヘの関心も高く選手の層も厚かったためと思える。特に、玉井・明田組のような強力な選手の活躍によるのだろう。

    ○同志社 5一3 真宗中学×
    同志社ペア:安井・和田(↓勝)、卜部・ 堀内、河内・片桐(2勝)、玉井・明田(2勝)

     
    1909(明治42)年
    この年 伊藤博文、暗殺される。本学ではカレッジソングが制定される。
  • (10月)対花園学院戦惜敗「開校校庭に於て戦ふ。彼れは師範と戦ひだる余勢の尚存するありて、其の応戦振り中々に勇ましかりレ(略)彼の技や勝りけん、惜しき敗を取りたり。選手諸君幸に白愛して尚一層練習に精励し此の恥を雪がずして可ならむや](同志社時報第59号)

    ×同志社 4-5 花園学院○
    同志社ペア:西村河内(2勝)、黒川・和田
     森口・広部、能勢・堀内(1勝)、卜部・和田(1勝)

    会沢清五郎・明田重義1人おいて玉井辰三郎
    前列左より 会沢清五郎
    明田重義1人おいて玉井辰三郎
  • 新コートで庭球部秋季庭球大会「新コートに於て聞かれた。野球部と同じく出演者本位の生徒だけにても百敷十名の多数であった。其の上京都の各学校より選手を招待したので、前日より開始せられた](同志社時報第60号)。この年にはグラウンドが更に拡張され(第2次運動場拡張工事)チャペルの北側も整備されたが、『同志社50年史』によれば「運動場の拡張と共に公会堂(チャベル)裏に二つのコートを作り]と言っているので、新コートはこのコートを指すものと思われる。2日にわたって大会を行ったというこの記述からテニスがますます流行していることがわかる。多分この年度からだと思われるが、学内庭球大会に他学校の選手を招待する試みを始めている。招待した学校は染織、花回、一中、商業、師範、医専、佛大、三高であった。

    同大ペア:西村卯・河内(2勝)、能勢・堀内、卜部・和田(1勝)、黒田・和田乙

     
    1910(明治43)年 この年 日韓合併の条約に調印。
  • (5月)対第ハ高等学校戦惜敗
    名古屋の第ハ高等学校から庭球犬合開催につき招待状を受け遠征し、「和田・ト部組は愛知中学の大将組と相見見巡拙なくして惜しき敗を取りたり。然れども西村、明田組は第ハ高等学校の副将と相見え、之を散々に打ち破り続く中堅をも一点の乗ずる無からしめ意気揚揚たり」(同志社時報第67号)とある。いままで近郊の学校としか試合をしてなかったが、宿泊を伴う初めての遠征と思われる。本学最強の2組だけが遠征したのであろうが当時の交通事情からすれば泊りがけの犬遠征だったに違いない。

     
  • (6月)対大阪商業戦大勝 
    府立第一中学校との対抗戦予定が強風のため休戦となったが、遠征の希望が出て急濾5組が大阪商業に遠征し対戦する。不戦2組、優退2組を残して大勝した。(同志社時報第67号)

    同志社ペア:ト部づ日田(1勝)、北部・和田(1勝)、他

     
  • (11月)対市立第一商業戦惜敗
    学内新聞の記者が三高で行われた対神戸中学との野球対抗戦に行ったため誰も観戦に行かなかった。そのため詳細な報告がなく、「対市立第一商業と開校校庭に於いて戦いしも惜しき敗を取りて残念なり、(略)記者亦野球戦を見庭球を見る能はざりしが故に詳かに記す能はず、選手諸君尚一層の奮励以って必勝を期して復仇戦を挑む可し」(同志社時報第71号)と簡単に報じているが、既に当時から野球がメジャースポーツであったことがわかる。ついでながら当時の学内新聞のスポーツ記事では野球とラグビーが紙面の多くを占めていた。たしかに庭球は手軽にできるスポーツとして人気が出ていたが、観戦スポーツとしてはやはり野球だった。

     
  • (12月)対関西学院戦惨敗 
    関学との対戦は春に続き2回目であったが、春は「彼の地遠征の際、あはれ一撃の下に破られ、勿鋼惶兵を集め彼の地を引き払うのやむなきに至りたる」(同志社時報第73号)状態で敗れており、本学としては今回の関学の京都遠征は「時ありてか、再び彼を襲ひ会稽の恥を雪がむと臥薪嘗胆以って剣を磨きつつありし茲に半年、析し析、彼れ苑地に来る、(略)応ぜすして可ならむや」(同志社時報第73号)ということで応戦することになったが、関学は花園学院、尋常二中を破り勢いに乗っていた。結果、「嗚呼、遂に我軍は起つ能はず、何ぞ其の応戦振りの奮はざる、何ぞその意気の昂らざる、吾人痛感に耐えざる所なり」と酷評されるほどの惨敗をした。
    ×|司志社 2- 5  関学○
    同志杜ペア:嶋崎・安川、露無一広部、明田、岩崎・山下、西村・河内(2勝)

     
  • 年間戦績講評:明治44年1月掲載
    "記者"はこの1年を振り返り庭球部の再起を促す名調子の厳しい講評をしているので採録する。「明治43年は暫くて同志社庭球部の負け年にてありき。昨春阪神地方遠征の際は雨天続きのため2回の試合をなすに過ぎざりしと、最も大阪商業に勝たるも関西学院に破れ、第一商業に降り、さ戦いては破れ殆ど庭球史上払う可からさせる汚点を止めたり。我が庭球部の歴史未だ新し敢えて古き歴史を有するにはあらずと古き歴史を有するにはあらずと雖も、而も前後数回の戦いに僅かに1回の勝ちを得た訓こ過ぎざる事は未だ之れ有らざるやに記億す。庭球部選手諸払兄等は何の顔ありて数百の健児に見みえんとはする。兄等大に反省する所ありて年改まると共に熟考挽回の策を講ずるにあらずんば同志社庭球部の前途大に憂ふ可きの至りなり。同志社庭球部諸君、上杉謙信入道は意恨十年一剣を磨くと賦したるにあらずや、而も彼は遂に長蛇を逸し去らしめたり、天下に覇を弥する易易の事にあらざるは祖君の能く熟知する所なり。乞う茲に大に決心する所あって奮励努力自愛せよ。而して明治討年をして勝利の1年たらしめよ。謝暴言](同志社時報第73)

     
    1911(明治44)年 この年 大逆事件で幸徳秋水等死刑判決。清国では辛亥革命始まる。
    関東関西学生対抗戦行う。
  • 庭球部休眠状態となる
    昨年度のあまりの惨敗に対外試合を自粛したのか、休眠したのか学内新聞に庭球部の記事が一切祓っていない。
     

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