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軟式テニスの普及と庭球部発足 ~ 明治時代2

    今出川キャンパス
    明治39年頃の運動会(今出川キャンパス)
  1. 本格的グラウンド整備は明治後半
    ところで、具体的なグラウンド整備が始まったのはハリス理化学館北側の約400坪の土地を相国寺から運動場として借用してからであり、 1906(明治39)年に竹やぶを切り回きグランドとして整備した。 1910 (明治43)年にさらに拡張し野球やラグビーができる程度の広さになった。 それまでは上賀茂神社の境内を借りたり、京都御苑の芝生を借りたりしていたのである。同時にこの前後からテニスコートも本格的に整備されてくる。
    運動場の拡張整備が行われるまでは体育施設は粗末な状況ではあったが、 全学を挙げた行事として1885(明治18)年に上賀茂神社で第1回運動大会が、1891(明治24)年に疏水が竣工するとともに瀬田川で第1回水上大会が行われ、 それ以降毎年の帆例行事となったっこの当時の生徒はほとんどが寄宿生で通学生はごくまれであったため、同志社教育の特徴がよく発揮できた時代である。 上級生か下級生の身の回りの世話から、運動に連れ出す、教会に連れて行くなど面倒をよく見たし、 教師も熱意のある人物ばかりであった。やがて同志社普通学校(明治22年普通部改称)や同志社尋常中学校(明治29年設置) の生徒の問で剣道、柔道、弓道等の武道系スポーツとボート、野球、蹴球が盛んになり始めたのである。

  2. 軟式テニスの普及
    ではテニスは同志社の生徒たちに親しまれたのか。 体育史の観点から校証してみたい。リーランドが体操教員養成朧関として創立された体操伝習所で全国から選抜された給費生に体操理論と実技を教授し、 特に前述したよ引こ日本人の体格にあったスポーツとしてテニスを奨励したので1886(明治19)年に廃止されるまでに230名が卒業し、 高等師範学校に赴任して行った教員たちはテニス奨励の担い手になった。
    しかし、硬式ボールは高価で輸入品であったためなかなか手に入るものではなかったため東京高等師範学校の要請を受けて、 明治23年に日本最初のゴム会社がテニス用ゴムボール(M球)の製造に成功した。これ以降日本独白の軟球を使ったテニスが急速に普及することになる。 「明治文化史 10-趣味娯楽編-」(開国百年記念文化事業会編 洋々社 昭和30年刊)には、「高師の生徒は、校舎の空地に、 まさに適当なテニスコートを設けることができた。卒業すれば直ちに全国の中等学校に師として赴任せねばならぬ義務付の彼等にとって、 軟式テニスこそ最適当のスポーツであった。(賠)高師・高商がテニスの両元老であったのは軟式テニスそのものの性質による。すなわち、 あの時代の一高、その他硬派・バンカラを標榜する学校は庭球を女性的として軽視していたエ ヨボというあだ名のあった高師、 ハイカラと評された高商、二、三年後には技師として実地につく学科で多忙の高工等は重労働的な力技よりも、女性的な運動を要求した。 (略)日露戦争前のわが国で軟式テニスが、高師一高商の線で、まず師範学校・女学校・中学校の寄宿生、 学修に追われる高等専門学校生徒のあいだに漸次普及したことは、スポーツ文化史として興味のあることである」と記している。 以上のようなことを重ね合わせると、他の学校に比較して本学は明治10年代後半にはすでにD.C.グリーンによって 教員・宣教師が利用できるようなテニスコートが整備され、学生も利用していたことは確かであり先駆的であった、 けれどもかならずしも本格的に普及していたとは思えない。 しかし、明治20年代後半に入り軟球を使ったテニスが公立の師範学校・女学校・中学校などに普及してから、本学にも紹介され、 安価で簡便なスポーツとして佐球に代わり教員・生徒のあいだに普及していったと考えるのがごく自然であろう。

  3. 同志社女学校のテニスコート事情
    明治28年1月発行の「同志社女学校期報」には「テニス(種々区画を標し、中央に網を張り左右よりラケットもて、 ごむまりを交互に打ち入れ勝負を争う遊戯)も盛りにして、始は上級生の専有物めきてありしが、今わ漸次に下の方へも廻はり、 コートを寄宿舎の北方食堂の東側に移し、午餐の後夕食前、相競ふて綱を張りラケットを取り出す。ラケットの等級に上下ありて、 我れ先きに善きをと無邪気に争うも愛らし。打一打十五分時にして体温まり、また、十五分時にして汗出づ。折に教師も打雑りて遊べば、 興昧愈々加はるやうになり。尚其北側に之を並べて別に一場のコートを設ける筈にて、已にじじならしを終りたり」と載っている。
    また、明治30年の女学校課程表に正課体操として美容体操、遊戯が掲載されている。遊戯とは球技を指しておりテニスも教えられていた。 課程表には「運動」の項に、「校内に二個の緩球戯場(テニスコートと槌球戯場(クリケット)とを設け又籠球戯(バスケットボール)を も準備し種々の遊戯を奨励す」と表記されている。いずれにしてもこのように同志社女学校ではテニスが非常に盛んで奨励されていた。 ひょっとすれば硬球を使ったり、軟球を使ったりしていたかもしれない。おそらく本校(当時は神学校、普通学校、波理須理科学校、政法学校) でも女学校以上に盛んであっただろうし、寮生がその担い手となったことだろう。
    また、先に教師館内にテニスコートがあったことを紹介したが、明治20年代後半には女学校の状況からして本校の寮の何カ所かにテニスコートが設けられていたと 推測する。
    しかし、明治30年代に入ってからテニスを組織だったクラブ活動のレペルまで高めたのは安部磯雄である。本学テニス部の祖といってもいいほどの人物なので少し詳しく紹介する。

  4. 安部磯雄
    安部磯雄
  5. テニス普及の功労者、安部磯雄
    同志社で学んだ安部繊維(写真)といえば明治・犬正にかけてのキリスト教授会主義者で社会民主党結党の発起人としてその「宣言書」の起草にかかわった著名な人物である。 しかし、彼はいろいろの顔を持った人物であった。その中でも教育界、政界での活躍に劣らず、スポーツ界で果たした役割は大きなものがあった。野球の普及に力を尽くした人物であるが、テニスにも秀でており、果たした役割は大きい。ここで彼をぜひ取り上げねばならない。
    安部磯雄は福岡の没落士族の出身で同志社に進学したのは1879(明治12)年、15歳であった。同志社神学校を卒業後、数年伝道師として活動をしてから1891(明治24)年に米国ハートフォード神学校に留学した。留学当時の生活を自叙伝『社会主義者になるま』(改造社1932年刊)に「然し春や秋の如き運動の好季節に於いて学生の殆んど全部が毎日1時間乃至2時間庭球のため費やすことになっていた。神学校には唯2つのテニスコートがあるのみで、他に何等運動の設備はなかった。然し僅かに40入棺の学生であるから、午後の時間を学生全部に割り当てれば2個のコートでも兎に角問に合ふたのである。米国のことであるから、庭球と言えば必ず硬球を用いることになっていた。私も入学当時から庭球をやり、後には大いなる興味を感ずるようになった。3年間を通じて庭球のため全力を注いだのであるから、卒業間際には40人中で第3棺をしむることになった。
    私が明治32年に東京専門学校の教師となった頃には既に学生の問に庭球は相当流行していたのであるが、私は硬球から軟球に転じたにも拘らず、試合に於いては相当の成績を得ていたのである。斯くの如く私は米国留学中庭球に熱中したけれども、野球に就いて何等見聞する所がなかったのは不思議に堪えない。(略)私が初めて野球を知るようになったのは明治30年から32年まで母校同志社の数師となっていた時のことであった。然し此時でも自ら野球を練習しようといふ考えを起こしたことは1度もない。これは私が庭球に於いて相当成功していたからである」と記している。このようにアメリカ留学の後、引き続き英国にも留学してから同志社中学の教頭として迎え入れられたが、わずか2年間で浮田部民や大西祝(2名とも同志社出身)などの誘いに応じて東京専門学校(後の早稲田大学)に転出してしまう。
    大西祝
    大西祝
    浮田和民
    浮田和民

    しかし、2年間の同志社中学校教頭時代に神学館(クラーク記念館)の東側にテニスコートを設け、有志のクラブを組織して盛んにテニスを行った(「同志社50年史」昭和5年刊)。安部は留学帰国直後なので硬球と軟球を併用して教職員学生を指導していたに違いない。また、端艇部の顧問も行った。安部は新島襄から薫陶を受けた人物で「こんど天国で新島先生にお会いするとき、安部さんよくやってくれましたね、と先生からいわれるのが私の第1の願いです]とつねづね語っているが、もし新島が生存していたら安部は2年で同志社を去ることはなかっただろう。
    新島と考えをともにしていた彼が同志社に長期に残っていればテニスをはじめとする近代スポーツが本学に強固に根付いていただろう。同志社には当時、徴兵猶予の特典保持問題をきっかけにした同志社綱領改定問題があり、同志社の居心地が悪くなったのか残念ながら安部は東京専門学校に転出してしまうのである。東京専門学校(早稲田大学の前身)の教員になってから本格的にスポーツに貢献することになる。
    東京専門学校では庭球に熱心であるということで運動部長を兼任させられ、さらに庭球、野球、端艇部などが創設されるに及んで専ら野球部長に専念することとなった。彼は野球部員の練習と試合を連日見続け、夏冬の合宿練習も参加し部員とともに寝起きした。また、草創期の早大野球部員に対して、一高、慶応、学習院に勝ったらアメリカ遠征に連れて行くと約束し、1904(明治37)年約束を果たした。また束京六大学野球り一グの創設に尽力し「学生野球の父」と も言われた安部死去の翌半作訪年に早大グラウンドは「安部球場」と呼称されるようになった。
    また、オリンピック初参加の勧誘がフランスの駐日大使ジェラールから嘉納治五郎にあった時、洋式スポーツに知識のない嘉納は海外のスポーツ事情に洋しい安部磯雄に相談した。そしてストックホルムで聞かれた第5回オリンピック大会に日本は初めて2名を派遣することになった「早稲田大学百年史」第3巻第22章スポーツ王国の実現 昭和62年刊)安部はスポーツの効用として3点挙げている。健康と純粋にして健全なる娯楽と修養である。ここに知・徳・体を一身に具現化した人間像を追及して止まなかった教育家安部像の一端が読み取れるのである。彼は新島精神を体現した人物といえる。
    なお、安部磯雄の子息民雄は早稲田大学の庭球選手として第1回全日本庭球選手権大会(大正11年)でダブルス優勝、第6回極東選手権大会(大正12年)に出場するなどで大活躍した。また、1930(昭和5)年11月にデビスカップ日本代表であった彼は佐藤俵太郎とともに本学を訪れ、模範試合を披露した。 この時の状況を庭球部理事水畑真純が学内新聞に紹介しているので後述する。

  6. 大隈重信
    早稲田大学創設者大隈重信
  7. 同志社運動部規則制定と庭球部発足
    同志社では安部磯雄が去ってからはテニスは一時停滞していたが、1904(明治37)年に四寮裏(アーモスト館付近)にも新コートを作って再び盛んに練習を始めるようになった。
    この直後、T905(明治38)年T月23日こ同志社運動部規則が制定された。制定の経緯について「元来本校の運動部なるものの正確なる細則がなきが為め、屡々当局者と生徒等の回に行き違いもあり不都合の事少なからざりしが、各部員大いにここに鑑みる処あり、1月学期初めより、時々委員会を開き種々協議せしが遂に去月23日に完成して校長の裁可を得る」と「同志社新聞」第3号に公表されている。
    これを受け1905(明治38)年度同志社学校長報告書には、「体育方面の発達は学校経営に取って特に望ましきことにして、之に対する学校当局の責任蓋し大なりとす。目下校内には剣術、柔道、野球、テニス、フットボール、端艇の数部ありて各部監督を推薦し、部長を推挙しその部の発達を計り云々」と記され、6つの運動部を学校公認の団体と認定し各部に監督・部長を置き発展を期することを報告している。
    ここで「体育方面の発達は学校経営にとって特に望ましいこと」とあるのは、現在の私学経営を先取りしたものとして注目に値する。6部が公認団体と認定されたが、フットボール(サッカー)は明治22年ごろにバトレット教授が指導したのが発端のようだ。
    また、剣道、野球、ボートは明治24、5年ごろ、柔道は29年ごろから活動を始めた。テニスは安部磯雄中学校教頭時代から本格的に始まったといってよいだろう。したがってすでに活勤していた体育団体がこの運動部規則で同志社当局に認知されたものといえる。
    バトレッド教授夫妻
    バトレッド教授夫妻

    それではどのような規則であったのか見てみたい。規則第1条目的には「同志社各学校教職員生徒一致融和して家族的団体となり各種の武術技芸により身体を研磨して紳士的品性と健全なる身体の発達を回り校風の発揚を期す」とし運動部の効用として品性、身体の発達に加えて校風の発揚をあげている。第3条で会員資格を定め、教職員を特別会員、学生を正会員とした。第4・5粂で庭球、銃剣柔道、野球、フットボール、端艇の6運動各部を置き、運動部には会長、副会長、幹事、監督、部長、若干の委員を置いた。
    運動部会長は校長、幹事は体操教員、副部長および監督は教員がそれぞれなり、部長は各部員から互選された。年1回開かれる総会で予算配分が行われ、運営経費は寄付金と特別会員および生徒の会費が当てられた。そして全学挙げて以前から回催されてきた春季水上大会と秋 季陸上天運動会を運動部行事として今後も行うことを定めた。
    この当時の運動部予算(明治37年10月決議)は庭球部4円、銃剣部20円、柔道部21円、野球部21.5円、フットボ-ル部7円、端艇部15円であったので予算配分比からして庭球部の部員は多くはなかったのであろう。当時の物価は東京・大阪問汽車賃3円56銭、新聞購読料28銭、理髪料5銭、うどん1銭であった。なお、当時の1円 は現在の5千円程度たったようだ。

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